ワイワイたすけ合い 「9.ようぼくにては手入れする」その1
9.ようぼくにては手入れする
障害はメッセージ
ヒロシ君のこと
私には、お腹を痛めた子どもはいませんが、心の息子と、血を分けた子どもがいます。心の息子は、今ブラジルに住んでいる、全盲で日本の盲学校に留学して来たヒロシ君です。ちなみに血を分けた子どもは、骨髄バンクを介して私の骨随を差し上げた、名前も性別も、現在の生存すらも分らない人です。
たとえば何かで落ち込んで、私の人生がたいしたものではないような気がする時、この2人の存在と、自教会を継がせて頂いたことが、私の心の強い支えになっています。
ある日、当時27歳くらいの私は、寮でテレビを見ていました。そこに国際盲人クラブ(現在は国際視覚障害者協会)の金治憲(キム・チーフン)さんの活動が紹介されていたのです。韓国人で全盲の金さんは、自分が若い頃、日本の盲学校に留学して、鍼・灸・マッサージの日本の国家資格を取り、自立しました。その恩返しにと、様々な国から日本の盲学校に留学し資格を取り、いずれは母国の盲人の教育や自立のために役立つ人材を養成するNPO活動をしていたのです。
「これだ! これは本物だ」と私は思いました。当時、私は少ない蓄えの中から、街頭募金に出会う度、一箱に100円必ず寄付をしていました。『稿本天理教教祖伝逸話篇』の「三九 もっと結構」(文献①)の「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか。」というお言葉に感銘を受けたからです。ところが1年くらいして、「カンボジアの地雷撤去と植林」のためと謳(うた)っていた募金が、実は、ポルポト派の武器購入に当てられていたという噂を聞き、無差別募金はやめて、本物の「善意を世界のしんどいのにがんばっている人へ届けてくれる」活動団体を探していたのです。テレビ画面の金さんの言動を見て、これは本物と直感した私は、年間会費2000円の会員になったのでした。
その後10年以上、ずっと単なる会員だった私に、ある日、金さんから一本の電話がありました。「奈良の盲学校に、ブラジルからの留学生を受け入れてもらえるよう交渉中なので、その子のホームステイ親になってほしい。あなたならできる。ヒロシ君とあなたならきっと上手く行く」と。当時、私が39歳独居、産科主任。ヒロシ君25歳、日系二・五世(つまり父は一世、母は二世)、日本語勉強中。私は、ポルトガル語はもちろん英語も怪しく、盲人の方への接し方も何もできず。ただ金さんの、人を見る目だけが根拠の「きっと大丈夫」でした。
今でも、初めてヒロシ君や金さん、奈良盲学校の先生方に会いに行った日のことを思い出す度、「向こう見ずだったなぁ」と、当時の不安と動悸が甦ります。
結局、金さんの眼力は正しく、私達14歳違いの親子の組み合わせは良かったようで、その後3年間、奈良盲学校の先生方や先輩、朝倉詰所やブラジルカナダ詰所、ブラジル料理のお店の方々のご協力もあり、ヒロシ君と私は、文字通り手を取り合って、ヒロシ君の卒業、鍼・灸・マッサージの国家試験合格の日を迎えたのでした。
ヒロシ君との思い出で、印象深いシーンがあります。まずは二人の歩く姿。ヒロシ君は左手に白杖を持ち右手で、私の左肘の内側に軽く掴まります。二人とも背中にはリュックを背負っています。車が来ると、車を避けつつ、足元の溝に嵌(は)まらないよう気をつけました。よく互いに足を踏んで、「ディスクープメ(ごめん)」「ノンフォイナダ(どういたしまして)」と言いました。躓いたのを支えあって「オブリガード【ダ】(ありがとう男性形【女性形】)」「ディナーダ(どういたしまして)」もよく言いました。
歩く時の二人の遊びに、すれ違う車の「運転手当てゲーム」がありました。運転手さんによって微妙に、すれ違う時の危なさ、つまりスピードや距離感、躊躇さが違うのです。見えないヒロシ君が「20代男」とか言うと、私が目で見て「ピンポーン」とか、「残念、30代」とか言うのです。ヒロシ君の的中率は80パーセント以上でした。「こっちは命がけだからね。交通事故で死ねるならともかく、下手に当たって車椅子とかになったら、目が見えない上に耐えられないよ」と、彼はよく言っていました。
彼の在学中も、在校生が事故や病気で亡くなることがありました。「目が見えないということは、死んでしまう確立が、普通の人より高いんだよ」と、彼はポツリと言いました。障害があるということは、死がより身近、今日が生の終わりかもしれないことを、より意識して生きることでもあると、私は知りました。それと私は、それまで車を走る物体として見ていたのを、車はどんな人が運転しているかで変わることと、物事の本質を気にするようになり、また目が見えないとか、どんな状況の中でも、人間の本質に関連のある「遊びや楽しみ」の可能性があることを知りました。
彼は地図や時刻表を買って晴眼者に読み上げてもらい、情報を活用することに積極的で、盲学校の友だちと、食べ放題とか遊園地にも、行っていました。弱視の人を先頭に、白杖を持った全盲の人が、3、4人連なって、楽しそうに真剣に出かけて行くのを何回も見送りました。ヒロシ君は、頭のよい、生活力のある人でした。 ハンディがあるからこそ、一生懸命生き、楽しみを探し、幸せになろうとしていたと、今、自分や家族が病気の身の上になって、しみじみ分かりました。
彼を実の息子のように思い続けた3年間でした。彼にガールフレンドができた時には、「うちのヒロシをよろしく」とか「他所様のお嬢さんを泣かすようなことをしては申し訳ない」という気持ちも味合わせて頂いたことは自分でも可笑(おか)しい気がしました。今、彼はブラジルで結婚してお父さんになりました。この先二度と会えないとしても、私にとっては大切な息子です。何かとても困ったことがあったら、助けに行ってやりたいと思っています。
【参考文献】①天理教教会本部編『稿本天理教教祖伝逸話篇』天理教道友社(昭和51年)66頁 |
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