天理教婦人会

ひながたをたどり 陽気ぐらしの台となりましょう

ワイワイたすけ合い 「9.ようぼくにては手入れする」その2

9.ようぼくにては手入れする
 
 障害はメッセージ 

 

盲ろう偉人・福島智氏

 私の尊敬する人に、福島智・光成沢美夫妻(文献②③④)がいます。指点字でコミュニケーションされる盲ろうの大学准教授とその夫人です。是非文献をお読み下さることをおすすめします。

 昨年、私は脳下垂体腫瘍で放置すれば失明と言われました。「もし失明したら、どうやって生きて行こう…認知症の母を施設に預けて、盲学校に入ろうか? めざせ『鑑真和尚のような天理教の会長』だな」とか思いました。怖くて不安で悲しくて涙が止めどなく出ました。

 幸い手術をして私の目はまた見えるようになりました。でも、もし目が見えなくなって、さらに耳まで何かの病気で聞こえなくなったら、私は福島さんのように生きていける自信が全くありません。しかしそのような境遇の中で生きている人がいるのです。その上、自分と同じ境遇の人をたすけようと日夜努力されているのです。目も耳も脳も柔らかく脆(もろ)いものです。本当はいつ故障しても不思議ではないのです。もしあなたの身に起こったら頑張れそうですか?

【参考文献】②天理教婦人会『ウィズ・ユゥ』Vol.20 8頁「インタビュー」
【参考文献】③福島智『渡辺荘の宇宙人』素朴社(1995)
【参考文献】④光成沢美『指先で紡ぐ愛』講談社(2003)

障害はメッセージ

 天理教では「病の元は心から」と言いますが、病というメッセージを親神様から頂いた人が、たまたま今はまだメッセージを頂いていない人より、劣っているのではないのです。親神様からのメッセージの意味を真剣に考えながら、一生懸命生きている人に、敬意と共感を持つ人になりたいと思います。

 身上事情は道の花、ようぼくにては手入れするといいます。天理教はポジティブ・シンキングの極致だと思います。病さえも障害さえも、その人や周りが、自ら成長するために親神様から頂いた大切な宝物なのです。

 次に、いちれつ会報・扶育生感話に載っていた風見匡紀さんの「贈り物」を紹介したいと思います。(文献⑤)

「(略)生後5ヵ月のころ、(略)脳の一部が欠けていることがわかりました。(略)僕の見える範囲は、(略)ちょうど海で使うゴーグルをつけている感覚に似ていると思います。(中略)身上をもって生まれてきたり、生まれたあとで身上になったりするということは神様からのメッセージだと思います。僕はこんなにご守護をいただいて、日々みんなと一緒に生活することができていますが、神様を信じきれているわけではありません。でも、神様がこの身上を通して、何を伝えようとしてくださっているのかを考えようと思っています。そうしているうちに、いつの日か本当に神様を信じきれる日が来ると思うのです。この身上を神様からの贈り物だと思って、これからも前向きに一生付き合っていこうと思っています。」

 ヒロシ君や福島さん、五体不満足の乙武さんのように強くしなやかな生き方を見聞きするにつけ、障害は、本人や家族、社会に対する、メッセージ、ギフトなのではないかと思います。

【参考文献】⑤風見匡紀「贈り物」いちれつ会報出身者版 第11号/在学生版 第115号
財団法人天理教一れつ会(立教169年/2006年12月1日)5頁、創立78周年お礼参拝・扶育生感話

難儀はたすけ合いの契機

 天理時報の身体障害に関する社説に(文献⑥)「『難儀を見せられるのは、たすけ合いを促すため』ではないか」「難儀は、(略)周囲の者には、たすけ心を培い、発揮する機会として与えられていると受けとめるべきではないだろうか。難儀は単に困った状態ではなく、それを契機にたすけ合うことで、陽気ぐらしへ近づく手がかりにできるということだ。」誰かが障害を持っていることを他人事として放っておくのか、きょうだいが助け合うきっかけを親神様が下さったと考えるかで、社会の様相は全然違うと思うのです。

 アンデルセンの「片足の鉛の兵隊」というお話に皆同じのクローン集団より互いの長所短所を補い合う個性的な集団の、一手一つの方が力強いし、陽気で楽しい気がします。

 

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